不思議な男だった。
万人の心を蕩かすようなその美貌、あでやかな金髪と青い瞳の上等なつくりはただの見せかけで、ぞっとする程の厳しさと凍るような憂い、威厳とも言うべき不可侵な神々しさ、この男の存在はそれで出来ている。
邸内の他の多くの従者を前にしても、ギャランは微塵たりとも表情を変えなかった。
全く以って近寄り難い印象だった。
だがそれが、どういうわけか、ふとした拍子に驚くほど幼くあどけない、屈託ないものに変わる、そのとても不思議な瞬間を周子は見た。
そして、その表情が、カズマにしか見せぬものであることも、同時に周子は知った。
エンヴィと呼ばれた男を冷徹に退けたギャランに強引に抱きかかえられ、周子は先ほどの書斎とはまた違う部屋に連れ込まれた。
ギャランの足が、がっ、とぞんざいに椅子を引く。
肩を押され、周子はよろけた拍子に腰を付けた。
勝手知ったる様子で部屋の奥へと歩いてゆくその雰囲気で、どうやらここはこの男の部屋らしいと周子は思った。
脱ぎ捨てたままの服、転がった酒のボトル、皿の上に残ったつまみ、破られた何かの包み紙、散らかってはいたが、何か、すごく……清潔だった。
シャツを一枚手にして戻ってきて、ぞんざいにがばりと頭を通すその様子、乱れる金髪と形好い耳から続く太い首と喉、肩と胸、腰に掛けての均整の取れたライン、何か、とても……健康的な好い匂いがした。
トン、
グラスの底が好い音を立て目の前のテーブルに置かれた。
ギャランが手づから傾ける銀の水差しの瀟洒な注ぎ口から注がれる素晴らしく透明な一条の水が、グラスの中に注ぎ込まれるのを、周子は注視した。
喉が渇いていた。
水を受けるなりグラスがたちまち結露する、冷えた水のその強烈な存在感、纏った水滴の煌めく美しさは手を伸ばすのが惜しいほどで、周子はしばしの間見惚れた。
とてつもなく美味そうな水に見えた。
暑い夏の日に、これほど冷えた透明な好い水が居室に供されているのは、一体どれほどの身分の男だというのだろう、ふと見せる凍るような威厳、それは、まさに……
―――私の主人として相応しい、
いい表情をして見詰めてくる、とギャランが青い目を少し伏せ、照れたように小さく笑った。
そして、目の前の椅子を引いて座った。
見詰めていたのを知られた、自分自身ですら今の今この瞬間まで気付かなかったその事実を突きつけられ、周子はかあっと頬に血が上るのを感じた。
―――見詰めていた、否、見惚れていたのだ、
そう思うなり耳鳴りにも似た激しさで羞恥が押し寄せた。
目の前のグラスを掴むなり、その水をギャランの顔面目掛けぱしゃりと掛けた。
思ってもみなかった周子の所業に、虚を衝かれたギャランは、真正面から見事に水を引っかぶり。
青い目がぱちくりと見開かれる。
濡れた金の前髪から滴り落ちる無数の豪奢な水の滴、長く濃い金色の睫毛の上に乗って輝く可憐な水粒を見て、周子は泣きたくなった、なんと勿体無いことをしたのかと。飲みたかったのだ。それをどうして……
「泣くな、水が飲みたいんだろ」
もう一度グラスに水を注いだギャランは十分辛抱強かった。
それをもう一度、周子はギャランの顔に勢い良く引っ掛けた。
攣れるような気配が一瞬走って、すぐさま目の前に白いドレスシャツが割って入り、平手を振りかぶるのが見えた、叩かれる、そう思って身を竦め……だが。
そのカズマの手を、ギャランが素早く遮った。
「止せ」
その声のなんと好い声か。
甘い何かが胸の奥から滲む心地がした。
ギャランの手が不意に伸びて、断りもなく頬に触れてくる。
己の頬の上でギャランの指が濡れるのが、涙を拭うその指の腹がひんやりしていて心地良かった。
ああ、熱があるんだ、傷の所為だ、と。
痛みも、熱も、こんな風に気遣ってくれるのなら、名を刻んでよかったと、
―――そうか、これが主人なら、まったく悪くない……
周子ははっ、と息を詰めた。
既に呪の効力に呑まれかけている己をはっきりと知ったのだ。
無性に怖くなった。
タトゥーの呪の拘束力が、これほどに凄まじく強烈なものだとはつゆ思わなかった。
もう一度、目の前のグラスに水が注がれるのを見た。
「飲め。喉が渇いてんだろ」
―――飲め……
ギャランの命令口調に、左腕にたちまち焼けるような痛みが走った。
周子は無言でグラスに唇をつけた。
そして、目を丸くする。
その水のなんと口当たりの柔らかな、まろい好い味か。
水は気に入ったみたいだな、と、周子の反応をうかがうギャランの慎重そうな表情は、まるで飼い犬の機嫌を伺う主人のようだ。
恐怖と怯えに心が硬直してゆく。
怖かった、この男の迂闊な命令が怖い。
この男はタトゥーの呪を知らないのだ、効力を知らずに口にする命令のなんと危ういことか。
「顔色が悪いぞ」
気遣うギャランの声に、さぞ真っ青な顔をしていることだろう、と周子は自分でもそう思った。
大きな手が伸びて、腕を取られた。
周子の腕の傷に、ギャランは低く唸って。
「悪かったな……ずっとこのままでさぞ痛かったろう」
カズマは傷を覗き込んですぐに眉を顰めた。
目線だけちら、とギャランを見遣る、それは利害関係を即断するのに慣れた、鋭い眼差しだった。
「なぜあなたの名が彫られているのです?」
「おれの恋人だから」
「! ダレが!」
たちまち目を三角にして怒って周子は叫んだ。
上半身を屈め間近で覗き込んでいたために耳元で叫ばれた形になったカズマは、露骨に不愉快そうな表情になって、上体を起こすと腕組みをした。
ちら、とギャランを見、それから、
「断固拒否します」
ギャランがくにゃりと片眉を寄せた。カズマを見上げ、
「カズマ、おれはまだ何も言ってない」
「仰りたいことは分かります」
じゃあ話は簡単だ、とギャランはにこっと笑った。
「この女をここに置く」
「却下」
取り付く島もないほどキッパリと、カズマは首を横に振って毅然と再度の拒否を示した。
「何処で拾ったのか知りませんがこんな得体の知れぬ野良猫、物騒です」
「ここの庭に落ちて来た」
落ちて来た? とカズマはたちまち怪訝な表情をした。
が、ギャランのその美丈夫な外見よりもずっと幼いその内面、彼の言葉の拙さには慣れているのか、メガネのブリッジを一度押し上げただけで、ふん、と冷静にひとつ頷いた。
「女が庭に落ちているものですか。……イーズリー卿ラインハルトの差し金か? まあいずれにせよ、ここがそう簡単に侵入できる屋敷ではないのは、王とてご存知のはず。いや、では王があえてそう仰るのならば、それでも結構です、それならばむしろ、この屋敷の主たる私にこそ、利益又は不利益の与奪、あるいは、もっとはっきり申し上げて生奪与殺の権利がある……」
「何様のつもり、メガネ。どこの国の何の法律よ、いきなり私を殺すつもり?」
カズマの言葉を遮り、周子は軽薄に笑った。
グラスの水を飲み干してようやく、否、向けられた敵意にこそ、周子はようやく己の感情の揺れが収まるのを感じたのだ。
人心地がついたと言ってもいい。敵意は簡単だ、あしらうか受けるか、いずれにせよそんなもの、慣れている。
―――そう、タトゥーのもたらす恋情の如き衝動よりも、はるかに、扱いやすい
「随分と粗野で無礼な女ですね」
「大否定ね」
周子の失笑、それがまたカズマの神経に障ったらしかった。
たちまち険しい表情になったカズマのピリピリとした気配に、
「まあそう心配しないでもすぐに出て行くから」
さばさばと肩を竦めてそう言って。
「……この男がロレンスじゃない以上、この召喚は無効だもの」
ギャランが途端に不服そうな表情をした。
「せめて傷が癒えるまでここにいればよいと思うが」
水を浸した真新しいガーゼで傷口を拭われ、周子はひゃっと短い悲鳴を上げた。
抗議の意図を込めたその手つき、子供っぽくも残酷なやりようで主張したギャランをキッ、と睨みつけて。
「その提案は受け入れない、私への口出しは一切許さない。正規の召喚ならともかく。召喚主たるロレンスで無い者にその権利は一切無い、身の程を知れ」
身の程、と呟いて、ギャランとカズマは顔を見合わせた。
「身のほどって、お前、おれはさっき名乗ったろう、ガーナの王……」
「知るか」
召喚主たるロレンス以外はみんな死ね、とでも言い出しそうなほどの、聞く耳すら持たぬ断固拒否たる態度で、周子はギャランの言葉を遮った。
だがカズマの気を引いたのは、周子の無礼な態度ではなかったようだ。
「王、この女に、ガーナの王と名乗ったのですか?」
「……このおれを知らぬと言うからな。あまつさえロレンスなどと三流な名で呼びやがった」
「ガーナの王、と?」
真意を推し量るかのようにぐぐっとギャランの顔を間近に覗き込むカズマ。
周子はこのとき初めて、カズマのメガネの奥の瞳が珍しい紫色であるのに気付いた。
ギャランは、うぐっ、とまるでカズマにやり込められたかの如く言葉に詰まり、それから、名乗って無ェ、と食中りでも起こしたかのような珍妙な声を喉から搾り出した。
「おれはこの国の王ではないし、今後も一切なる気は無ェ」
ったくお前はいちいち細かく人の揚げ足を取りやがって、とギャランはカズマから顔を背け……そんなギャランの様子に、カズマは、ほう、と感心したような声を出した。そして何か急に周子に利用価値でも見出だしたのか、周子を見据え、直接声を掛けた。
「召喚主たるロレンス、とは一体何のことです?」
「……」
「契約で雇われたというのなら、やはり誰かの差し金か? どういう意図で。わざわざ見目良い女を選んで送り込んでくるとは、閨で寝首をかくつもりか」
「閨!? このバカと!?」
周子はガタッ、と立ち上がると、黒眉を吊り上げ、ギャランに指を突きつけた。
「冗談じゃないよ! ミアムの召喚の種は超絶純愛種族だ! 雇われてこんなバカと寝るわけが無かろうがッ! タトゥーを刻んだ相手ただ一人だ、私だって、私が寝る男はタトゥーの主ただ一人と昔ッから決めてる、何を言い出すんだ無礼者」
そう言って、あれっ? と短く叫んで眉間に皺を寄せるなり、たちまち真っ青に青ざめた。
「タトゥーの主って、ええっ……」
「ちょっ……嘘!! か、かかかか帰る!!」
強く首を振って後退り、椅子を足に引っ掛けて派手に転んだ。
その動揺ぶりはなかなかのものだった。
「こここここんな現実はあり得無い、承服し難い、理不尽だ、ひどい、私は恋愛ってのに人一倍夢も希望も憧れもある、ほほ惚れた男のタトゥーを刻むんだ、冗談じゃない!」
「帰るって、何処にだ?」
「ミアムに決まってるでしょが! 父さんが待ってる! もうお夕飯の支度しなきゃな時間だし! いや、ちが、それどころじゃないけど、ととと、とにかく帰らなきゃ」
動揺したまま周子は、ギャランの問いに勢い良く怒鳴り返した。
カズマはミアム、と呟いてギャランを見た。
己が耳を疑うといった困惑の表情で視線を寄越したカズマに、
「ミアムの召喚の種だと言ってる、おれの許へ召喚された」
「まさか、いくらなんでも五百年前の大……」
「カズマ」
ギャランがその言葉の先を遮った。
おれの許へ召喚されたですって? ギャランの言葉にたちまちざばりと黒髪を逆立てた周子の表情は噛み付かんばかりの形相、凶暴な野獣そのものだ。
「召喚されてないから! あんたのトコになんか! 死んでも!」
吼えた。
死んでも、って、とカズマは突如ムキになった周子の子供臭い言い草に呆気に取られた。
「なんと粗野で凶暴な。話はつかめませんが、とにかく、王がなんと仰ろうと、こんな女、私は全力で却下します、すぐにでも屋敷からつまみ出させていただきます」
エンヴィ、と声高に従者を呼びつけたカズマを無視して。
「座れ。その傷、そのままでは帰れまい」
「構わない、ほっといて」
ギャランの言葉にぷいっ、と顔を背けた周子だったが、
「座れっつってんだろ」
「なんてこと言うのっ!」
「……なんてことって、座れとしか言って無ぇぞ?」
悪気のないギャランの言葉に、周子は、ッ、と明らかに反抗的な舌打ちをして。
殺気をみなぎらせながら、だがそれでも周子は再び椅子に尻をつけた。
「縫った方が良いか?」
「無理。刻んだ名に手を加えることは許されない。この傷は特別。治癒呪文も無効。ほっとけバカ」
「バカ!?」
無礼者、とカズマが横で凄んだ。
「手を出すなと言っている、カズマ。口もだ」
「しかし! 王が手づからこのように処置を為さるなど。ありえない。あまつさえ王に対する数々の暴言、これ以上の無礼不敬を許すわけには参りません」
「いいっつってんだろが!」
突如苛立ちを露わに怒鳴りつけたギャランの迫力は相当なものだった。
左二の腕に丁寧に包帯を巻かれた周子は、
「とにかく。この召喚が事故である以上、私は帰る。私のこと、召喚してないんでしょ? 召喚って、知らないって言ってたもんね? 召喚も知らん貧乏人相手にしても話にならん」
「貧乏人?」
カズマの訝しげな復唱に、ギャランもおや、という表情をした。
「周子、お前はおればかりか、この男も知らんのか」
「呼ぶな」
気安く私の名を呼ぶな、と周子はギャランを睨んだ。
「そもそもあんたが名乗ったのがいけないのよ、百歩譲って私の真の名を知り得たとて、なぜそう迂闊に己が名を明かす、通り名があるだろが。お前はロレンス、私はラッシュサマーと呼ばれているだろうが。なんと思慮の浅はかな男か、ああそうよ、ほんっとにバカ者、馬鹿だわ。返す返すも腹立たしい、こんのばか者めが!」
カズマが怒りに息を詰めた。
「女、貴様いい加減に……」
「バカをバカと言って何が悪い。私の中でこの男はバカと決定したわ」
ギャランは、真の名……と呟いたきり、しばしの間沈黙していたが、やがて、理解した、と言ってその青い目を細く引いた。
「じゃあ、おれがロレンスだ。確かに、おれは召喚とやらを頼んじゃいない、だが、お前がおれのもとに飛んで来たってこた、おれがお前の召喚主ロレンスとやらだ、ロレンスってのは通り名なんだろ、なるほどそれなら辻褄が合う。丁度いい」
得心がいったように笑顔で、ぽん、と手を打った。
「丁度いい!?」
周子は怒りを露わにした。
「貴様召喚の種をバカにしてんのか! あまつさえ召喚主の通り名を騙るとはおこがましいにも程がある、この私が貴様の命令を受ける理由なぞ微塵も……」
―――タトゥーの呪は召喚契約よりも上位。命を賭す絶対命令。
「召喚、どころじゃないわ……」
タトゥーを刻まれたのだというその事実に、改めて周子は魂の芯から震え上がった。
「なんでこんなことに……。なんであんたは私の名を知った、ギャラン?」
「なんで、って……」
青い瞳が困ったな、とでもいう風に素朴に、子供っぽく揺れた。
―――だめだ、怖い、めちゃくちゃ怖い。聞くのも怖い、何より一秒たりともここに居たくない、この男を前にするのが怖い、
「そそそ、そうだこれは何かの間違いなのよ」
そうだこれは、望んで刻んだタトゥーの主ではないのだ、反古にして当然然るべき呪だ。
「とにかく帰って父さんに相談しなきゃ」
くるっと踵を返しドアの方へ向かった周子に、ギャランはおいおい待てよ、と慌てて声を掛けた。
「待て、ですって!」
ギョッと飛び上がる周子に対し、ギャランはやはり悪気の無い表情で。
「大体お前、そんなひどい傷で、熱が出るぞ。癒えるまでおれの許にいたほうがいい」
「いえ、結構です! こんな傷!」
―――この男はタトゥーを知らない
その効力を明かす気もない。冷静な、商業的視点で以って周子は自分の価値を知っている。
ミアムのタチバナ、若い女の形はしているが、ミアム一の実力者たる父修三タチバナが確かにその素質を一族最強と認めた、特別な娘なのだ、そんな最強の魔法使いを、なんでも命令を聞く奴隷として得たと知って、みすみすそっとしておいてくれる人間なぞ、此の世にいるものか。
―――タトゥーの主の命令は絶対。抗えば死ぬ……だが、呪を解く方法はあるはずだ、
「ミアムに……」
―――なんとかこの場は誤魔化して、とにかく一度ミアムに戻らなくては、
「帰るな」
「死ねっ!」
ギャランのその一言に、何かを考える間もなく、一気に血流が逆流した気がした。
突如、ものすごい爆音が轟いた。
攻撃系最上級呪文による青白い灼熱の火炎が周子の足下からすさまじい勢いで放射状に四散し、轟音をたて屋敷が吹っ飛んだ。