「望みだ何だというよりも、話を聞かせてもらう必要がありそうだな、来い」
「ちょっ……ッ! やだって! 勝手に触んな! 無礼者ッ!」
腕をつかまれ、引きずられるようにしてその場から連れて行かれそうになるのを、周子は強引に振り払った。
「−―――ッ!」
周子の強烈な肘鉄が男の鼻面を強打したのだ。怯んだ隙に、鳩尾に強烈な蹴り、次いで下がった頭に、こめかみ目掛けて真横から拳が強打した。
予想だにしなかったであろう周子の仕打ちに、たちまち地面に崩折れた男に、
「あ……ご、ごめ、やりすぎた、いや、謝らないねッ!」
「謝らないのか! 痛ッ……お前、ず、ずいぶんとえらそうだな!」
男は鼻と腹を押さえたままうめいた。
「あら。えらいもの。ミアムの最高位のタチバナだもの、此の世で一番えらいわ」
勝手に触らないで、と、周子は腕組みをし、ふんぞり返った。
小柄な背丈と敏捷そうで伸びやかな肢体、背に揺れる艶やかな長い黒髪。
印象的なつやつやと濡れた黒目の一見可憐な美少女が、忌々しげ睨み下ろすその表情には、加虐的な、痺れるように甘美な、言うに言われぬ迫力がある。
ふんぞり返ったついでに、周子はぐるりと周囲を見回して。
何処かの庭なのか、手入れの行き届いた景色が広がっている。丁寧に刈り込まれた植栽とその向こうに広がる一面の柔らかそうな芝。
眩しい夏の陽射しを斜に背負い色濃く影を落とす木々、涼しげな木陰と鳥のさえずり、さわやかな風に凪いでキラキラと輝く湖面。清らかなせせらぎさえ耳に届くのだから、湧き水でも引き込んだ瀟洒な小川さえあるに違いない。どこを見ても美しい庭だった。
まぁ、ミアムのタチバナを召喚しようだなんて、よほどの金持ちな貴族か、どっかの国王くらいなものだものね、と周子は納得したように頷いた。
ただ、庭というには広すぎるかもしれない。
池というよりは湖。植えこみというよりは、木立。
庭というよりは、森の中。
散策にはまさにぴったりの景色が広がっているが。
―――これだけ広い庭園を維持するのに、いったいどれほどの労力と金がかかるだろうか。
そう思うと、少し、ぞっとした。
―――ここは、どこだ?
確かに、体に感じる圧倒的な重力の差が、この地が自国ミアムでないことを語っている。
「ミアム……かの地への立入りは禁忌の筈だが」
「は?」
ガーナはもちろん、セリアとて認めていない、セリアが協定を破ったか、とその男はひどく機嫌を損ねたように唸った。
たっぷり、間があった。
「おい、女……いや、待てよ」
ふと何かを思い出したかのように、男はちょっと眉を上げると、言葉を切り、まじまじと周子の黒目を覗き込んでくる。
「黒目黒髪といえば、お前はそうだ、タチバナだな。そう、タチバナだ。名を、シュウ、……そう、シュウコとか言ったはずだ」
「!!」
たちまち周子は大きくひとつ飛び上がった。
唐突に、心臓が破裂したかと思うくらいの衝撃が身体を打ったのだ。
急にものすごい勢いでどくどくと荒く鳴り出した心臓のあたりを胸の上から強く押さえ。
腕が、肩が、身体が震えるのが分かる。周子は信じられない思いで目の前の男を見上げた。
「ロレンス、あんたは、どうして……」
―――どうして私の名を。
名を、当てられた。
もしくは、何らかの事情で名を知られていた、そう思うなり周子は、恐怖と焦りで自分の呼吸が荒くなるのを感じた。
やばい、やばい、と頭の中で激しく警鐘が鳴る。
対する金髪の男は微笑んで、お、ビンゴか? と急に機嫌をよくしたようだった。
改めて上から下まで、しみじみ周子を眺めて、それから、いい女だなぁ! と明るい声を上げた。
「まさか本物を見ることがあるとは思わなかったなァ。その黒目黒髪、紛れも無い。はて、もう少し、妖艶な印象のする美女だったと思ったがなぁ」
などと、名を当てた当人はあごを撫で撫で、改めて目の前の周子の容姿に感心することしきりである。
周子は不安を隠しきれぬ声で男を見上げ、呟いた。
「ロレンス、私を知ってるの?」
たちまち男は眉を顰めた。
「先ほどから、なぜおれをロレンスと?」
「だって、呼んだのはあんたでしょう、ロレンス」
「ロレンス、ね……お前は本当におれのことを知らんのか?」
こんな金髪で青い目の、これほどイイ男は他にいない筈だが、と真顔で尋ねてくる。
「知るか!」
「命知らずだな」
面白そうに目を丸くした。
「ねぇロレンス、これはいったいどういうこと?」
ミアムにあるベースが、真の名を洩らすはずが無い。
魔力を持ち魔法を行使するミアム国の一族にとって、互いに真の名を名乗り合うことで発動する呪(しゅ)は、最も拘束の厳しい超級(エクストラ・ランク)の契約だ。どんな契約も、それを上回るものは無い。
真の名を呼ぶことを許した主の命令には絶対に従う、”隷属のタトゥー”と呼ばれるその呪は、いわば、最上級、最重要、最優先の契約。
それは、つまりは、ミアムの召喚の種の所有権を譲り渡すようなもの、そんなことをベースが他国の者に許すはずがない。召喚の種の真の名は、ミアムの召喚契約の保障機関たるベースが厳密に管理しているのだ。まして……、
―――まして、私はタチバナの血系だ、
ミアムの中で唯一、タチバナの血系と呼ばれる周子の血筋だけはベースによる管理を許さぬ別格だ。
ベースでさえ、ミアムの長老でさえ、タチバナたる周子の真の名は知らぬ筈なのだ、決して洩らせる筈が無い。
「おれはロレンスなどではないからそう呼ばれると不愉快だな」
ふうむ、と男は軽く唸った。
「どういうことかだって? おれの方が聞きたいぞ。いま、この世で最も有名な、超絶美形で超〜ウワサの、わがガーナ国新国王様の御尊名すら知らぬ者がいようとはな! しかも、ロレンスなぞと三流の名を勝手に命名しやがって! おれを知らぬからそんなぞんざいな口が利けるのだな! 無礼者めが!」
男は、さっきの周子の態度以上に、さらに威張りくさったように腰に手を当てふんぞり返り、大きく息を吸った。
「いいか、周子タチバナ、覚えとけ、おれの名は……」
周子は途端に飛び上がった。
「わわわわわっ! ちょっ、ちょっと待っ……」
周子の制止を聞かず、その男は堂々と、名乗った。
「おれの名は、ギャラン・クラウンだ」
「しまった!!」
周子は短く叫んだ。
―――呪が!
途端、肉の裂ける嫌な音を立てて、血飛沫が上がった。
噴出し宙に拡散した細かい血飛沫、真っ赤な霧の如きその向こうに、突然の出来事に驚き硬直したギャランを、周子は見た。大きく目を見開いたまま、呼吸すら忘れた様子で目の前の血飛沫を凝視している、その、なんと、間抜けな様か!
「何のために通り名があるんだ、ロレンス!!!」
怒りに任せ激しく一喝することで、周子は意識を手離さずに済んだ。
―――召喚主のロレンスは、私を通り名のラッシュサマーと呼ぶはずだ、まして、その上、なぜ彼自身までもが、ロレンスという通り名ではなく、真の名を名乗るのか!
気力を振り絞り、首を捻って己が左腕を見た。激痛の涙に滲むその先に、獣牙に裂かれたが如き荒々しく生々しい肉の裂け目を見た。溢れ出る鮮血に、すぐには判読できないが。
周子は、認めた。
ギャラン・クラウン、その名が刻まれた、と。
「あ、あ、」
衝撃のあまり、言葉が出なかった。
―――隷属のタトゥーは、その主の名を左腕に刻む、
痛みよりも何よりも、名を刻まれたその事実に、心が折れた。
「……ロレンス、よくも私の名をやすやすと口にしたな!! どうやった、どのようにして私の名を手に入れた、そもそも召喚したのは呪の発動が目的か! おのれ」
混乱した表情で伸ばしてきたギャランの手を、周子は払うのが精一杯だった。
「だからおれはロレンスなぞではないぞ? そもそもさっきから召喚召喚ってなんのことだ? なんでいきなりこんな怪我をするんだ? ……い、痛くない筈は無いはずだな? すごい出血だが、大丈夫か」
ギャランが覗き込んだ周子の額には、左腕の傷の痛みと失血のショックで冷や汗がいっぱいだ。
「あんた、まさか、ほんとに、私のこと、呼んでない?」
「呼んでないが」
ギャランはきっぱりと否定した。
「大体、金なんて払ってないし? 誰に払うんだ? 金ならそりゃカズマが払うかもしれんが、あいつはわざわざここへ女を呼びつけておれをエロ楽しませようなんて、エロ気の利いたエロ接待はしない男だぞ。仮にカズマがそうしたとして、その相手がお前だってなら、奴と過ごしたこの十年の中で奴がおれのためにしでかしたあらゆる篭絡作戦の中でも最も素晴らしい策略だと誉めてやるがな?」
少しはカズマの言うことを聞いてやってもいいかもしれんと思うぞ、と、そう言ってギャランは、着ていた白いシャツを脱ぐと、出血激しい周子の左腕の傷に強く押し当てた。
「お前はソーユーことするために来た女じゃ無いんだろう? もっとも、それならそれで、相手がお前なら、おれは超〜ウェルカムだが?」
「あ、当たり前だ、さっきからエロエロ言うな! ウェルカム言うな!」
ギャランは、青い瞳を一度残念そうに泳がせて、それから、うむ、と落ち着いた頷き方をした。
先ほどまで瞳に染みていた酒気はすっかり失せ、周子の腕に強く当てた布がみるみるうちに血で滲むのを神妙に見ているようだった。
「では、そもそも、なぜおれが、召喚とやらをしてお前を呼び出し、望みとやらを叶えてもらわないとならんのだ? べっつに望みなんざないのに? おれの名前はギャラン・クラウン、ガーナの国王だ、つまりは、おれはロレンスなぞじゃないし、お前を召喚したわけでもない」
「じゃ、これって」
―――召喚に、失敗した? 召喚ミス?
千にひとつ、いや、万にひとつ、あるいはそれ以上に稀な割合で、召喚された先とは違う場所に出現することがある、と、話では聞いていた。召喚とて、他の魔法が時に失敗するのと同様に、必ずしも完璧に履行されるものではないのだと。
そんなことは知っている。
そんなことは、召喚の種なら誰もが知っている基礎知識だ。
だが。
そういう場合は、そのままベースへ戻ればいいだけの話で。
だが。
この状況はなんだ?
―――名を刻まれるということがあり得るなんて、
「タトゥーが……」
タトゥー? とギャランは、周子の腕に刻まれた己の名を見て眉を顰め……
「おれの所為なのか?」
「―――嫌ッ、触らないで!」
鋭い拒絶の悲鳴と共に強烈な平手を一発、ギャランはまともに喰らった。
炸裂したその痛烈な激しさに目を丸くし頬をさすったのもほんの一瞬、ギャランはすぐにシャツのまだ白い部分の残っている袖を割くと、それで周子の腕の付け根を固く縛った。
ぎゃっ、と短く周子が叫んだ。
歯が折れんばかりの強さで悲鳴を噛み殺すのを察し、ギャランはためらわず周子の顎を強引に開くと、口の中に指を突っ込み、舌を押さえた。
周子が、ガタガタと大きく震えたまま止まらない。
痛みではない別の何かに脅えたその様子の、
怒りと絶望とを湛えたその黒目の、なんと艶やかで美しいことか。
ギャランはしばし呆然と周子を見詰めた。
どうやら自分が何か致命的な失敗を犯した、ギャランはそんな、奇妙な実感に打たれた。
唐突に湧き上がる正体不明な高揚と、何か強い衝動があった。
―――タトゥーは巧妙な罠だ。
名を刻んだタトゥーの主に絶対の服従を誓うのだ、この主のためになら、何でもしよう、主が望むのなら命すら構わない、それはまるで、
―――それはまるで……
「大丈夫か?」
心配そうに問い掛けてきたその声は、心に深く沁みるような、周子がこれまで聞いたことのないほど甘く優しい声に聞こえた。
心痛を露わに半ば伏せた青い目には、長い睫が色濃く陰を落としていて。
ものすごく、綺麗な横顔だ、と周子は思った。
胸がぎゅっと強く鳴った。何か、重力を伴う大きな穴が空いた感覚だった。
恋に落ちる瞬間、というものを周子ははっきりと身体に知った。
―――それはまるで、恋情に近く……
タトゥーは巧妙な罠だ。
―――分かっているのに、抗えない……
早くも呪に囚われたことを知って、周子は崩れ落ち号泣した。