ぐらり。
体が大きく傾ぐ感覚……急に増した重力に引き込まれるように、周子はばたりと地面に落ちた。
地に付けた頬と体の下から、土の湿気がじんわりと染みて来るのが分かる……頬のすぐ横に、誰かの黒光りする革靴を見て、ああ、召喚されたのだ、と周子は思った。
ゆっくりと身を起こそうと、地面に腕を立てたが、ひどく震えた。
―――重い。地面が恋しい。
召喚されたときはいつもこうだ、ミアムの結界は身体を軽くする、ゆえに国外に出た時はいつも、急激な重力の負荷に苦労するものだ……それは、まるで羽根でももがれた気分に近い。
―――恋しい。地面が、いや、……み、ず、水っ!!
意識の焦点が合うなり、強烈に喉の渇きを感じた。体の内から上がった悲鳴にも似た強烈な欲求、ひりつくような渇きに顔を上げた矢先、ちゃぷん、と水音がして、すぐ目の前に小瓶を見た。
すぐさま奪い取り、口づけた。とにかくこの渇きを癒すことを本能が選んだ、のだが。
ぶ――っ!
勢い良く嚥下するなり、周子は激しく咽た。喉を焼くこの熱さ、
「酒!」
噴出した口許をこぶしでぬぐって、ひとしきり咽転げた。
取り落としたボトルの口からは琥珀色の液体が地面に注がれていて。とくとくとく、地に零れる小さな音がいやに大きく聞こえた。芳醇な酒の香りが、染み込んだ地表からゆっくりと立ち上ってくる。
「口が利けるほどには喉の渇きは癒えたか?」
黒い革靴の主が、すっと、自分の隣に屈み込む気配。
逆光のために昏く輝く男の影、それがやや小首を傾げ、周子の顔を覗き込んでくる。
ハチミツのようなあでやかな金髪が華麗な陰影を刻み、キラキラと光に散り輝くその様子はひどく豪奢で神々しく、その目ははっとするほど綺麗なブルーだった。
「あなたが、私を呼んだのね?」
「呼んだ?」
疑問で返す男の訝しげな表情、間近で見たその瞳はかなりの酒気を帯びている。
周子は知れず微笑んだ。
―――相手が酔っ払いなら、楽勝だ。
「私がここに召喚されて、あなたを最初に見たということは、あなたが召喚主、ロレンスってことね」
それから周子は立ち上がると、一つ咳払いをした。
足下に屈んだままの男を見下ろして。
威厳を感じさせる、普段よりもずっと低めの声で、言葉を発した。
「聞こう、お前の望みはなんだ?」
―――こう、召喚主に問うのはこれで三度目だ。三度目の召喚、先に経験した二回の召喚同様上手くこなせばそれでよい、ただの召喚、それだけだ。
交わした召喚の契約によりお前の望みを叶える、と周子は続けた。
男は呆気に取られたような、ぽかんとした青い目でこちらを見上げている。
―――バカみたいな、青い目だな、
見上げて寄越す目は、すがすがしいほどに青い。何の悩みも憂いもなさそうな、途方も無く美しい青色、晴れた夏の空の如き見事なまでの青い瞳を見下ろして、世の中にはこんな綺麗な青い瞳もあるものだなと、周子は軽く驚いた。
「お前が私を召喚したのだ、望みを述べよ」
短くそう命じた。
まして相手は酔っ払いである。
―――さっさと用を済ませて、ベースに帰ろう。
そう思った矢先、
「無ぇ」
答えを待つ間もなく、男は即答した。
「バカ言え、無いことは無いはずだ」
召喚しておいて望みがないと言った人間なぞ、今まで聞いたことがない。そもそも召喚とは莫大な対価を要するものだ、冗談や悪戯で費やせる額では、到底無い。
見下ろされるのが気に食わなかったのか、男は立ち上がると、ふん、と小さく鼻を鳴らした。
思った以上に背が高い。今度は周子が見下ろされる形になった。
「望みなど、ない。ないものは無い」
それはビックリするほどの、良い声だ。
張りと艶のある意志の強そうな雄々しい声、周子が今まで聞いたことのないほどの男前な声だった。
精悍な、引き締まった頬と、口角のやや上がった形の良い唇。
それが動いてもう一度。
「おれには望みなど、ない」
「……あれま。あんたはなんか、人生に絶望でも?」
思わず周子は聞き返してしまったのだが。
男は、それこそビックリしたかのように、目を丸くして周子のほうを見た。
そのあまりに驚いたかのような表情に、却って周子は軽く噴き出した。
「だーいじょうぶ、大丈夫。人生そんなに捨てたもんじゃないってば。たぶん。だって、あなた、この私を呼んだんですもの!」
男の腰のあたりを、パンパンと気安く叩いて。
周子は自信たっぷりに笑った。
「この私を呼んだ以上、あんた、人生、生きてて良かったって思うわよ?」
べらぼうに高額な召喚契約金を課している自分をあえて召喚したのだ、望みはない、などと冗談めいた強がりを言ってみたところで、実際は相当の覚悟をしているに違いないのである。
「なあに? ミアムで一番高値で取引されてるのがこんな小娘でびっくりしてるの?」
「あ、新手のサービスか? カズマの差し金にしちゃずいぶん気が利き過ぎてる……っつーかありえ無ぇ、あいつはそんなエロ刺客を差し向ける奴じゃ無ぇ、だって、そもそも、宙から落ちてきたし? なんで女が降って来る?」
どういう趣向だ? と唸ったその口調、困惑した表情でふるふると金髪を振るその仕種は、見た目よりもずっと子供臭い。
「召喚を知らぬはず無いでしょう? ミアムの召喚の種を見るのは初めてみたいだけど。魔法が使えるってだけで、あんたたちと大して変わらないわよ?」
ほら、と、周子は男の手を掴んで自分の胸に押し当てたが、
「きゃっ?」
胸に押し当てた男の大きな手が、
「やっぱエロ刺客?」
ぷにぷにと乳房を揉んだ。
「―――ッ!!」
すかさずその手を払うなり、周子は足を鋭く蹴り上げ……おや、と思った。
上背のあるその身体が、ほんの少しだけ無駄なく動き、蹴りを躱したのだ。
自分の間合いもスピードも良かった、蹴りとしては良い蹴りだった、それをこう容易く躱すとは……
―――なんだこの男……いやそんなことより!
「ロレンス、この酔っ払いめが! ふざけてないで早く望みを言え!」
くそう、胸を揉まれた! と真っ赤になって、周子は人差し指をびしっと目の前の男に突きつけた。
「ベースに言いつけてやっかんな! 契約違反だ! 覚えてろこのエロ金髪!」
男は首を捻り、突きつけられた指先を不快そうにかわした。
「ベースって?」
「そりゃ、ミアムの……って、ところでここはどこ?」
周子は言いかけた口を押さえて、男を見た。
男は軽く目を見開いて、周子を見つめていた。
「ガーナだ」