「のあーっ、畜生、今日も空振りかっ!」
およそ魔物とは言いがたい、貧弱なスライムをぺちゃりと靴底で踏みつけると、ギャラン・クラウンは叫んで仰け反った。
傾きかけた夕陽はいっそう赤みを濃く増しつつ急速に地平線の向こうへ沈んでいく。斜に背負った夕陽が、ハチミツのようにあでやかな金色の髪を赤く染め上げ、陽に透けた髪がまるで光を放っているかのように光り輝いている。
陰になって定かではないが、その表情は苛立ちを押さえきれぬかのように険しい。ごっそりと陰になった秀麗な面持ちから、青い瞳だけが射るように鋭く、見つめてくる。
自分より三十は若い青年に睨まれ、壮年の司令官は、すっかり竦んで立ち尽くしていた。
「ですが、私が隣国セリアとの国境警備の要、血盟砦の司令官を任じられて五年、日夜精進して務め上げて参りますに、このような魔物を見たことは一度もございません。やはり、召喚したものと思われます」
「ンなもん召喚してどーすんだよ!」
無残に踏み潰された挙句、まだ午後の暑さの強く残る夕陽に射られ、小さなスライムはみるみるうちに水分が蒸発しいっそう小さく干からび縮んでゆく。
「しかし魔物でございます」
「魔物ならこんなもんでもなんでも怖いってぇのか」
「いえさすがにこれは」
壮年の司令官はむしろ気の毒そうな表情で、その残骸を見る。
ガッ、とその残骸が蹴り上げられ、土くれごと宙に舞う。
「こりゃどー見たって、練習、だろ、練習!」
「ですが」
「召喚、ってのはなー、こー、もっとー、あー、なんだー、でかいヤツ! そう、でかいヤツで、ドラゴンとかが火ィ吹いたり地面に大穴あけたりすんだろが! こんなかわゆいぽよよんなゼリーちゃんを呼び出してなにが召喚だ!」
「スライムにも毒を持つものがございますれば」
反論を許さぬ苛立ちの色濃い眼差しに射られ、司令官は一度口をつぐんだ。
「つ、つまりは、”召喚の書”はまだまともには行使されていないと。まだこのような貧弱な出来そこないが現れる程度で済むうちに、かの書を取り戻すということでありまするな」
「焚く!」
なんと、と司令官が息を呑んだ。
「焚くとおっしゃいまするか」
「無論」
「もったいない」
「おまえ、おかしいぞ! 魅入られたか! 魔物がごちゃごちゃ出てくるあのおかしな本をこの世に残しておく方がよっぽど物騒だぞ!」
魔物がごちゃごちゃ出てくるおかしな本……ガーナ国建国以来、魔物を召喚する書と言い伝えられ、王宮の宝物庫にて厳重に保管されてきた古書に献ずるにはあまりに乱暴なその言葉に、壮年の司令官は冷や汗を浮かべた。
「……ですが、セリアが既に”召喚の書”を手に入れたとの噂もございます」
「かの天才宰相か」
「シュルツ宰相ならば、智略に長け、まんまと”召喚の書”を手に入れることも、あながちあり得ぬことでもないと……前王陛下は近年セリアの宰相とは存外に親しくなさっておられた。前王陛下が王宮の宝物庫から”召喚の書”を持ち出したのを最後に、以来行方不明でございますれば……」
「ふっざけんな! 国王が敵国へ亡命するわきゃねーだろっ!」
「真実がどうであれ、前王陛下が敵国セリアへ亡命したとの噂がある以上、我々軍部は前王陛下を暗殺しこそすれ、もはや王として敬い称えることなど到底出来かねます」
ギャランの表情が硬くなった。
「前王陛下が”召喚の書”とともに失踪されてはや一年。今我が国ガーナが切望しているのは、この非常事態を回避しうる、若く、強い、新国王でございます」
露骨に嫌そうな顔をするギャランを、窘めるように、壮年の司令官は更に辛抱強く丁寧に言葉を続ける。
「元来ギャラン様は我ら軍部の最高司令官。軍部は新国王としてギャラン様を冠することに全く異存はございません、むしろ、あなた様のこれまでの軍における指揮統率の的確さ、言葉の簡潔さに皆心酔しきっております、あなた様のように気性の激しい、雄々しい王を頂くことは、まさに我らの究極の望み。まして、私めはギャラン様の幼少の砌(みぎり)よりお仕えし、畏れ多くも剣術の指南をもさせていただいた。近年におかれては剣術大会で続けて三度の優勝をおさめるなど、まことにご立派な成長ぶりでございます、若く、強く、気性も激しく、そして、その見るものを魅了するその美貌、まさに王、生まれながらにして王たる者の素質を存分に祝福されておいででございますれば……」
「なげーんだよ、ハナシ」
なげやりな言葉とともに、腰をどかっ、と蹴り飛ばされる。
干からびたスライムを蹴り上げた足である。
この若き新国王にとっては、自分などそんな程度なのであろうかと、頑強だが、従順で無抵抗な司令官の体は簡単に地に膝をつけた。
―――この十年、
どれほど熱い言葉を捧げても、当人に聞く気がなければ届かない。自分たちが向ける好意と期待を、どのようにして伝えれば、伝わるのか……あでやかな金髪と青い瞳、人心を惹き付ける華麗にして派手な印象の外見だが、こうして押し黙ると、全く以って近寄り難い厳しさ、威厳とも言うべき不可侵な神々しさすら感じさせる、極上の品格、そう、まさに、
―――王の中の、王、であるべき男なのだ、
ギャランはますます嫌そうに目を半開きにすると、秀麗な面持ちを歪めた。
「ハリー、お前変わっちまったなァ、おい。んなわけのわかんねぇしゃっちこばった変な言葉遣いしやがって。ナニ言ってんのかさっぱりわっかんねぇぞ?」
「変わったのはギャラン様でございます」
ハリー、とこの十年来決して呼ばれることのなかった懐かしい愛称で呼ばれても、将軍ハロック・スレルムは毅然と返した。
「これではほんとに王にされッちまうだろ!」
「いえ、既に、王でございますれば」
「言うな!」
ギャランは、自分の剣をハロックの目の前に突き出した。
握らせようとするが、先ほど蹴り上げた時とはうってかわって、今度はその頑強な体はびくとも動かない。
「ほら、殺せ、おれを。おれは王にはならんぞ! たかが前の王の正嫡であるというだけで、そうすんなり王にされちゃあかなわんと言ってるんだ!」
握らぬ剣を、地面に叩きつける。
「おれはなー、そりゃ剣は好きだぞ、血のッ気が多いからな! だが王なんてそんな面倒なこと、真っ平ごめんだ! ハリー、お前だっておれのことがわかってるだろうが!! せいぜいが、酒飲んで女抱いて、そんな人生でもう十分だっつーんだ!」
「それはまことで?」
落ち着いた澄んだ声が、何処かからかうような色を込め、真意を確かめるように問うてくる。
道の向こうから、一頭の白馬が夕闇を裂きゆったりと近づいて来る。
もはや闇に近いほどに暮れた夕闇に、鮮やかな緋色のマントが一際目立つ。
「ずいぶん派手ななりだな、カズマ」
「正装でございますゆえ」
細身の長身に見事な緋色のマントを羽織り、カズマ・フォン・グランツは馬をひらりと下りると、裾を払い、襟元を軽く引いて正した。実に洗練された貴公子然とした仕草である。
「お迎えに上がりました」
「明日ッから正装はパンツ一丁でいい!」
メガネをかけた端正な顔立ちは、微塵も動じない。
「いまやあなた様の命に逆らうものはおりません。ギャラン王。これほど高い支持を集める国王はかつて無い。たとえパンツ一丁という理不尽な命でも、皆粛々と従うでしょう。さすれば、」
地に膝を折ったままの壮年の司令官、ハロック・スレルムにちらりと視線を投げる。
「王宮にむさくるしい男どものパンツ一丁が右往左往するのをお望みか」
「ウェルカムだ!」
間一髪いれずに返したギャランを、しみじみと見つめて。
「しょうがないですね、では、却下」
「最初から従う気なんざねぇんだろ!」
とっぷり暮れ行く闇夜に目立つ、あでやかな金髪を振り乱し、ギャランが噛み付いた。
カズマは軽く手を上げると、ハロックに二言三言指示を与え、控えていた一個小隊を引き上げさせた。
「本日の魔物狩りはこれにて御終いに致しましょう……三現神はいまだ不明ですが、ギャラン新国王陛下による政権擁立に必須の五貴族のうち、既にルドルフ、ラインハルト、アシューの三人は決定し、長老にはポルデモルト卿をと打診しております。それなりに手は打ちましたので近日中には色よい返事が返ることでしょう」
「ふん、得意の買収か」
「…………」
ギャランは背を向けると、ふんぞり返って腕を組んだ。
「おれは絶対に継がんぞ」
「継ぐ継がぬではなく。前王陛下が行方不明になられた以上、あなた様は新国王陛下であらせられる」
「勝手に繰り上げんな! だからこう毎日毎日国中駆けずり回って探してんだろ」
「この一年、王が、王宮を離れ毎日各地を飛び回っていらっしゃるのは、ひとえに、前王陛下とともに失せた”召喚の書”を探すためだと」
「お前が適当に言いくるめたんだろ」
カズマは利き手の中指で軽くメガネのブリッジを押し上げた。
最後の夕陽の一条がグラスに反射する。
「王宮に、お戻りください」
「おれがお前の言いなりになったことがあるか」
間。
カズマは少し考えるように、神妙そうに軽く唇を引いた。
「では、せめて一度くらいは……」
「抜かせ」
ギャランはひらりと馬にまたがると、
「おれは国王にはならんぞ。買収は不要だ、お前も札束ばっか数えてないでたまにはオンナでも抱け!」
捨て台詞を残し、威勢良く馬を駆った。
逃げ去る王の、しなやかで力強い馬体を一人見送って。
カズマは、しばらくそのまま立ち尽くしていたが、やがて気を取り直すように今一度几帳面に襟元を正すと、馬に跨った。
整備された間道のすぐ脇は、腰辺りまでうっそうと生い茂った蔓草の覆う道無き森奥。すでに深い闇が立ち込めている。