テラスに面した一側は大きな折れ戸になっていて、開け放つとまるで室内と庭とがひとつにつながるような開放感がある。
開け放たれた向こうに深遠なる闇が広がっている。
昼に降っていた雨はとうに止んでいる。
いまは、雨滴とも霧ともつかない水の微粒子が、大気の中に浮くともなく沈むともなく漂っていて。
夜が深まりゆくにつれ、その微粒子が、空気が、次第にゆっくりと冷えてくる。なんとも良いこころもちのする夜のひととき。
幼児の小指ほどの赤い炎が、息をするように、小さくランプの中に揺れている。
意外なことにギャランは酒を飲む時には、大人しくなる、と周子は知った。
ギャランは、余計な口を叩かず、酒の味をゆっくりと楽しむように、静かに喉を鳴らす。
杯を重ねるにつれて、ほんのりと目元に朱が差してくる。
かすかに首を傾げて唇を濡らす仕草には、なんともいえぬ色香が漂っている。
そんなギャランと差し向かいで飲むカズマは、涼しい顔で杯に唇をつけている。
こちらはいくら杯をあおっても、その顔に朱は差さぬ。おそらく、もともと酒で酔うタイプではないのだろう。
カズマは時折、ギャランが美味そうに舌を打つのを見、つ、とほのかに目を細める。杯に触れる形の良い唇が、ほんのりと微笑む。
カズマが酔うとすれば、それはギャランにであろう、と周子は思った。
周子は濡れ縁にそのまま腰掛けて、ぼう、と夜空を仰いでいる。
刻は月が既に中天を過ぎている頃だ。
仰いだその宙には、月の居所は杳として知れぬが。それでも月は、宙のどこかにはあるのだろう、闇の中にぼんやりと青い光を含んでいるようにほのかに鈍い光が透いていて。とても美しい闇夜だ。
周子は、ぼんやりとそんな宙を眺めながら、かなり飲んだなぁと思う。
飲んだのは、これまで周子が口にしたことがないほどに、美味い、上等の酒だった。
口当たりは澄んだ冷たい湧き水のようでいて、胸のうちにぽっと灯がともる。
それが面白くて、周子は何度も杯を口元へ運んだ。やがて、見かねたギャランが優しく周子の杯を取り上げ、そうしてようやく周子は自分がかなり酒を過ぎているのを知ったのである。
早い話、周子はとうに酔いつぶれている。
つぶれてはいるものの、絡むわけでもない。ただ、ぼんやりと、夜の闇を眺めている。
黒いキャミソール一枚の、剥き出しの肩。
素肌に触れる夜気は、冷えてはいるが寒さを覚えるほどでもなく。
長く下ろした黒髪が、しっとりと夜気を吸って重くなっている。心地よい重さだった。
周子は何度か目をこすった。
叢の中に何かが動いている……小さな生き物のようなものが叢の根元のあたりをちょろちょろと縫うように走り去っていくのを見たような気がしたからだ。
「…………ねぇ?」
と、口に出しては見たものの。
「そろそろお前は眠った方がよいのだろうな」
ギャランが深みのある、いい声でおっとりと優しく返した。
甘く痺れるほどにいい声だった。
周子はその声の主が好きだと思った、それがたとえタトゥーの所為でも、やはり、好きだと思った。隷属のタトゥーというものはまこと巧妙に人の心を縛るものだと周子はぼんやりと思った。
朝、馬車の出立する騒々しさに目覚めた周子が部屋を出てきたときには、どうやらカズマが、王宮へ出向いた後だったらしい。
ギャランが、つまらなそうに、所在なげに窓辺に肘をついて、外の庭を眺めていた。
昨夜静かに酒を酌み交わす、二人のなんだか妙に色っぽい光景といい、今朝の残されたギャランの、さびしげな表情といい、思わずお二方は一体どういう関係ですかと周子は問いたくなった、妙な親密さに思えた。
初めてギャランに会ってタトゥーを刻まれた時も、この男は真っ先に自分をカズマの下に連れてきたのだった、と周子は思い出した。
―――この男は、カズマばかりを見ている、
「周子、散歩でもするか」
「行けば?」
可愛げのない返事で、周子は背を向けた。
嫉妬のような、なんとはなしに胸がじり、とするのは、この左腕のタトゥーの所為、タトゥーがあるからこそ、この金髪はえらく男前に見えるのだ、だからこそ自分がいっそう反発するのも仕方がない、と周子は己の妙な苛立ちをタトゥーの所為にした。
「お前もだ、来い」
ぴくり、と周子は片眉を顰めてギャランを睨み上げた。
「命令した? いま、命令したわね?」
「おう」
ギャランは鷹揚に笑って。
「こんぐらい、ケチケチすんな、ただの散歩だ、付き合え」
さっぱりとそう言って周子の腰を寄せると歩き出した。
ギャランのその仕草はとても自然で……ギャランの腕の中に、周子は意外なほどすんなりと収まった。
昨日の雨が、まだ空気中に残っているようで、やんわりと肌が冷えるのが心地よかった。
背の高い一面の叢も、つややかな水滴を湛え、すがすがしく輝いている。昨日までのぎらぎらとした夏の暑い日ざしが嘘のようだ。
「この季節にこんなに涼しい日があるのは珍しいぞ」
暑い夏の息抜きにはちょうど良いな、とギャランはまるで自分がそんな一日を創り出したかのように得意げに微笑んでいる。
もちろん国王とてそんなことは出来ないだろうが、まるで自分がそうさせたかのように、当然のことのようにこうもゆったりと微笑まれると、国王であらせられるあなた様のおかげでございます、などと、まるであのメガネが言いそうな言葉が口から出てもおかしくは無い気がした。こんなバカでもやはり、生まれついてのものがあるのだろうか、と、周子は不思議な……神格めいたものを見た気がした。
「ミアムの気候は温暖だったか」
「ええ」
周子は短く答えた。
今着ている黒のキャミソールとミニスカート、ミアムでは年中こんな格好のままだ。
「ガーナは、夏は暑く、冬は寒いぞ」
カズマに服を用意させよう、とギャランは言ったが。
「冬までは居ないから、その必要はないわ」
「………………なんの根拠があっての話だ?」
「こうなったら、わがままとヒステリーと暴力と、破壊の限りを尽くして、あんたが私に去って欲しいと、自分の口で私に乞うように、仕向けることにした」
途端にギャランは、くっ、と笑った。
「お前の主は、辛抱強いと思うぞ」
青い目は優しく引くとその青みがいっそう増して輝き、魅力的に見えた。
周子は数瞬、たっぷりと見惚れた。
腰に回されていたギャランの手に、ぐっと引き寄せられた。
キスされる、と思った瞬間、
「伏せろ」
短く、低く鋭く囁かれるなり、勢い良く足元をなぎ払われた。
足元を不意に掬われ、ずでん! と周子は派手に身体を地に打ちつけた。
水気を多く吸った地面は、全く音を立てなかったが、かなり痛かった。
ギャランの囁きが切羽詰った声色でなければ、即刻立ち上がってその秀麗な横っ面に鋭いケリを入れるところだが。
周子はそのまま、ギャランのただならぬ様子に息を凝らした。
掻き分けるように、叢がさわさわと鳴った。
―――誰か、来た。
ここはカズマの私邸であるからして、彼の不在時にわざわざ訪れる者はいない。
もし、うっかり不在を知らずして訪ねてきたとしても……だとすれば仏頂面の侍従長、エンギワルーに丁重に追い返されているに違いない。
まして、庭に客が勝手に入り込んでくるはずがない。
―――つまりは、招かれざる客というやつか。
周子は叢の根元からギャランを見上げた。
先程までとは打って変わった厳しい表情をしていた。
「久しぶりに見る顔だな、ラインハルト」
ギャランは鮮やかな青い目を怜悧に細めて、口の端を少し上げた。
それだけだった。
サービスというほども無い。
すぐに端正な、だが無表情な美形になると、あごをしゃくった。
「カズマなら不在だ。帰れ。おれはお前達とは話をしない」
「…………そうはいきますまい、国王様」
「近寄るな」
短く一言。気の無い声だが、絶対的な厳しさで。
国王、と自分を呼ぶ、はるかに年上の壮年の男を前に、ギャランはあからさまに冷ややかな態度を示した。
言葉を返さないどころか、表情一つ変えない。まるで、目の前のこの壮年の男の姿が全く目に入っていないかのような、異様な冷淡さである。
かろうじて対峙はしているものの、今にも踵を返しそうなくらい、目の前の存在を認めていないのである。
「カズマ・フォン・グランツが不在を承知で上がりましたこと、お察しいただけると思いますが」
王宮にお戻りください、とその男は続けた。
眉を顰めるわけでもない、ましていつものようにおれは王ナンザごめんだ! と叫ぶわけでもない。
ただ、その瞳に宿った青い光がひたすらに冷たく、近寄りがたいオーラを放って…………王宮に戻れと掻き口説く男の熱が上がれば上がるほど、宙を睨んだ青い目は冷たさを増していくようだった。
掻き口説く壮年の男の熱と、ギャランの冷たさと。
視線を交えることさえ許さぬギャランの素振りは、むしろ、異様だった。
振るう熱弁は、ギャランに心酔している、ギャランを慕っている人間のもののように聞こえた。言葉に込める熱い思いは、どう聞いても、悪意のある人間のものには聞こえず、むしろ温かみがあり、人間くさく、必死で……。
だが、掻き口説くその熱い言葉には全く耳を傾けぬ素振りのギャランの白皙の頬と、全く動じない、ちらとも揺るがぬ冷たい眼差しは、むしろこちらの方が、はるかに人間離れをしているかのようにも見え……正直、ぞっとするほどに冷酷で、傍らに潜んでいるのも恐ろしいくらいだった。
つい先程まで、すぐ隣にいた魅力的な笑顔の主と同一人物であるとは、全く思えない。
ギャランがこの場を離れないのは、ひとえに、その足下の茂みの中に自分がいるからだと周子は思う。
地に伏せた周子の背中を足で踏みつけて、力をこめるのは、立つな、と言っているのだ。
ひどい扱いではあるが無駄がない。
はっきりとした力で以って、周子のその姿を、目の前の壮年の男には見せるな、とギャランは言っているのだ。
周子がいなければ、とうに背を向け、屋敷の中に入っていただろう。
ギャランと壮年の男との距離は十分に離れており、ギャランの足下の叢の中にいれば、周子は相手に見つからずに済んだはずだった。
周子が、声を上げなければ。
この時……周子が叫ばなければ、見つかることは無かったのだ。おとなしく、ギャランの言うことを聞いていれば。
背の高い叢の下で、周子は何かがすばやく動くのを見た。
「ハンズ!」
「なんと!」
周子の叫びに、壮年の男が驚きの声を上げた。
ギャランはギョッとしたように周子の背中を踏みつけていた足を浮かせた。
周子ががばりと立ち上がり、一拍間を置いてギャランが厳しい声で毒づいた。
「黙っていろと言ったろう!」
「だって!」
周子は短く叫んで叢に飛び込んだ。
「ハンズ!!ハンズ!カム!」
周子の声に反応したのか、叢の根元をすさまじい速さで駆け回っていたそれがぴたりと止まった。
ぴくり、と振り返り、素早く草の根元の陰に潜んだ。
それから、ほんの少し姿を見せ、声の主を確かめるかのように、わらわらと五指を動かした。蜘蛛にしては大きい。
「ハンズ、カム!」
有無を言わせぬ、飼い主然とした、毅然とした命令口調で短く周子が呼んだ。
叢が揺れて、その根元から、泥にまみれた小さな”手”が現れた。
広げれば五、六センチほど、幼児の手の平ほどの大きさ。
というよりも、まさに幼児の手。
手首から先の”手”が、二つ、ちょこちょこと五指で地面を爪弾くように、転がるようにもつれ合い、こけつまろびつ、慌てた様子で周子の下にやってきた。
周子はその奇妙な小さな、泥にまみれた”手”を、ためらわず湿気た地面から掬い上げる。
「んまあ! レフトとライト。なんであんたたちがこんなところにいるのよ?」
ふっくらした幼児の五指が、左右対になって、周子の目線でわらわらと動く。
「爪の間に土が入ってるわ。父さんが見たら目を剥くわよ。この間ずいぶんと綺麗に丁寧にあんた達にマニキュアを塗ってくれてたじゃないの」
びくり、と怯えたようにその両手指は一瞬動きを止めた。
「父さんはあんた達を可愛がってるんだから」
うそだ! と言うように、両の五指、あわせて十本の指が、またわらわらと動いた。
「あんた達がここに居るって事は、”封印の書”は? 父さんが来てるなら話は早い、この金髪を殺してもらっちゃおう」
「ちょおおおっと、待て!」
ギャランが周子の肩をつかんだ。
「なんだそれは!」
気色悪そうに眉根を寄せて、周子の手の中の魔物を見る。
「ハンズ。見てのとおり、手よ。えーと、五歳児。レフトとライト」
周子はギャランに突きつけるようにその目線にまで持ち上げた。
ライトは、周子の容赦ない指先によってその小指をつるし上げられ、レフトはその人差し指と親指とでライトの親指にぶら下がっている。
「ハンズ、ご挨拶は?」
一方はか弱い小指を吊るし上げられ、もう一方はぶら下がるだけで必死なのだろう、かろうじてライトの中指だけがぴるぴると震えて応えた。
「……挨拶、じゃないだろっ!」
目の前に突きつけられたギャランは、思わず半歩下がった。
「ナンなんだその気色悪い生き物はっ! 生き物? 生き物なのか?」
「やあね、父さんの使役獣よ」
周子は短く応えると、ぞんざいにレフトとライトを自分の胸元に突っ込んだ。
がびん! と軽くギャランが飛び上がった。
「ヤメロ!」
「なんでよ。今ここに”封印の書”がないなら、ハンズを仕舞い様が無いじゃない。こう見えてものすごく獰猛な魔物なんだから。ポケットに入れてて、座ったときにつぶしちゃったら嫌だし」
「封印の書、だと?」
一瞬ギャランがギョッとした表情をした。
書、と呟いて、数秒の間硬直したが、
「だ、だがな」
ギャランが大真面目な表情になって、
「そ、そこに埋めるのはずるい、おれだってまだやってない!」
そう言って、おもむろに周子の豊かな胸の谷間に手を突っ込んでハンズを掴むと、べしん! と勢い良く地面に叩きつけた。
「ああっ!」
周子が慌てて地面に膝をついて、地面の上でぴるぴると震えているハンズを拾い上げた。
「なんてことすんのよ! 五歳児なのよ! 鬼! 人でなし! えっち!」
「そのぱふぱふはおれのもんだ! 許さん」
たちまち周子のパンチを鳩尾に食らって、ギャランは身体を二つに折った。
「王!」
先程からギャランに王宮に戻れと熱く迫っていた壮年の男が悲鳴を上げた。
鼻の下にヒゲを蓄えた、肌艶の良い堂々たる恰幅の紳士を、周子は改めて正面から見た。
「まさか、王が、魔物を飼うとは、どういうことですかな? 魔物こそ、この1年ばかり、王が躍起となって狩っていたものではございませぬか、よもや魔物を手懐け……いや、いやいやいや、そんな不穏な……ですが、ならばこそ黙るわけにはまいりませぬ、とにかく、事情を伺わねばなりますまい。王、ご足労願いますぞ」
言葉は丁寧だが、海千山千の年季のいった抜け目無さ、圧倒的な威圧感で彼はギャランに迫った。
「カズマ・フォン・グランツの私邸にて、よもや魔物を飼っているとは思いませなんだが……いやいやこれはこれは大変な問題ですぞ」
ギャランは、先ほどの異様な冷淡さ、王、と呼ばれて見せた、ぞっとするような威厳をすっかり失い、うぐぐ、と喉の奥を屈辱に鳴らした。
そして、ギャランは、先ほどラインハルトと呼んだ男に促されるまま、半ば脅されるかのようにして、庭の裏手に横付けされた馬車に乗り込んだ。
馬車が、人目を避けるかのように庭の裏手に用意されていたあたり、この壮年の男はこの屋敷の主、カズマに用があったのではなく、最初から、国王ギャランをこそ、連れ出そうとしていたに違いなかった。